{テ洲句

August 2282004

 釣堀が見え駅に立つ人が見え

                           宮津昭彦

語は「釣堀(つりぼり)」で夏。句の「駅」は東京JR市ヶ谷駅、「釣堀」は市ヶ谷駅下のそれと特定できる。「市ヶ谷フィッシングセンター」という名称だ。休日ならばともかく、天気の良い日だとウィークデイでも釣り糸を垂れる人でにぎわっている。リタイアしたらしき高齢者が多いかというと、さにあらず。けっこう若い人も釣っているから、いったい彼らはどんな身分の人々なのだろうかと訝ってしまう。片や駅のホームには、鞄を抱えた忙しそうなサラリーマンたちの姿があるので、余計に釣堀の人たちが目立つのである。句はこのような情景を見たままスナップ的に詠んでいて、ふっと微笑を誘われる。編集者時代には印刷所に行くのにこの駅をよく利用したので、通るたびに一度でいいから真っ昼間に呑気に釣ってみたいものだと思っていたが、ついに果たせなかった。仕事をサボって釣るには、あまりにも目立ちすぎる場所なのだ。何人かの東京に長い友人に聞いてみたが、そう思ったことはあっても、誰も行ったことがないという。ネットで調べてみたら、次のようにあった。「JR市ヶ谷駅を降りると目の前に広がる、のどかな釣堀。貸し竿は100円、エサ代80円と低料金で道具が揃うので手ぶらで遊びに行ける。50cm以上もある大物のコイを狙うもよし、「ミニフィッシング」で金魚釣りを楽しむもよし。また釣れた魚は1時間につき1尾持ち帰ることができる」。「俳句研究」(2004年9月号)所載。(清水哲男)


June 2962007

 汗のシャツぬげばあらたな夕空あり

                           宮津昭彦

語に「あり」と一字字余りで置かれた言葉が作者の実感を刻印する。「夕空あたらしき」などの定型表現にはない力強さが生じる。「あらたな夕空」は明日への決意に通じる。汗が労働の象徴だった時代はとうの昔に過ぎ去った。都市化のエネルギーの象徴だった煙突やダムやトンネルはいつのまにか環境破壊の悪者に役どころを変えている。勤勉も勤労も真実も連帯もみんなダサイ言葉になった。死語とはいわないけど。これらの言葉を失った代わりに現代はどういう生きるテーマを得たのだろう。そもそも生きるテーマを俳句に求めようとする態度が時代錯誤なのかな。否、「汗」と言えば労働を思うその連想がそもそも古いのか。だとすると、汗と言えば夏季の暑さから生じる科学的な生理現象を思えばいいのか。それが季題の本意だという理由で。何でシャツは汗に濡れたのか。やはり働いたからだ。テニスやサッカーやジョギングではなく、生きるための汗だ。そんなことを思わせるのはみんなこの「あり」の力だ。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


July 1072012

 烏瓜の花を星雲見るごとく

                           宮津昭彦

没後に開く烏瓜の花の微細さは、見るたび胸をしめつける。レースや煙、寺田寅彦にいたっては骸骨などとあまりといえばあまりな見立てもみられるが、どれもどこかしっくりこないのは、比喩されたことにより遠のいてしまうような掴みどころのなさをこの花は持っているのだと思う。しかし、掲句の「星雲」といわれてみれば、たしかにこれほど似つかわしい言葉はないと納得する。漆黒の宇宙のなかに浮く星雲もまた、目を凝らせば凝らすほどと、もやもやと紛れてしまうような曖昧さがある。美しいというより、不可解に近いことも同種である。夜だけ咲く花を媒介する昆虫や鳥がいるのかと不思議に思っていたが、明かりに集まる蛾がその白さに寄ってくるという。花びらの縁から発する糸状の繊維は、もしかしたら光りを模しているのかもしれないと思うと、ますます満天に灯る星屑のように見えてくる。もっとよく観察しようと部屋に持ち帰れば、みるみる萎れてしまう、あえかな闇の国の花である。〈枇杷熟るる木へゆつくりと風とどき〉〈近づけば紫陽花もまた近寄りぬ〉『花蘇芳』(2012)所収。(土肥あき子)




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